『信長公祭』
行って来ました。
天童の有志の方々
織田藩家臣の御子孫の方々
信長公をお慕いする方々が
歴代藩主と信長公を御守りし
御法要を執り行う厳かな
お祭りでありました。
二胡の演奏が御法要をなおいっそう
心洗われる空間に。
今回初めて信長公祭に参加してみて
知らなかった事、謎だった事がわかりました。長い文章になるのでお時間のある方ご興味のある方だけお読み下さいませ。
三宝寺に納めてある信長公の肖像画は
明治期に撮影され宮内庁、織田家、三宝寺の3ヶ所に。三宝寺の『五七の桐紋』は天皇家の副紋で足利氏に許され足利氏から信長公に其れから三宝寺に許可された高貴な寺紋だそうです。御霊屋の仰徳殿には歴代藩主や御家族の79名の御位牌が安置されているのだそうです。
『天童の八重さん』
織田領荒谷村の大庄屋、村形家の娘、
八重は11代藩主の側室となり13代藩主となる寿重丸を生んだ。産後は戦火を逃れて実家に戻り失意のなか命を落とした。
『三宝寺、戊辰戦争に巻き込まれる』
庄内藩兵が官軍方の天童に攻めいり閏四月四日、天童藩の御陣屋や民家を焼き討ちした。三宝寺も焼失したが、御霊屋の御位牌は二〇世住職詮応上人達が、伊達藩領の秋保温泉に背負って持ち運び戦火をまぬがれた。
『子ども漫画の先駆者
貴族院議院の 織田信恒』
織田信恒は元相馬藩主の長男で
12代藩主信敏の長女 ゑいと結婚し14代を継ぎ子爵を襲爵した。
京都大学法学部を卒業し朝日新聞編集部に迎え入れられ子ども向け漫画『正ちゃんの冒険』を連載し子ども漫画の先駆者となった。
中略…。
信恒が揮毫した板額と偏額が仰徳殿に掲げられている。
『建勲神社』
禰宜さんに丁寧に教えて戴きました。
神社内に奉納してある信長公の甲冑と経し切り長谷部。レプリカでありますが信長公を慕う市民の方が寄贈なされたそう。その他九州の信長公を慕う殆んど目の見えない方のお描きになられた信長公肖像画の版画。見事でありました。気持ち籠っておられます。
建勲神社の高橋泥舟さんの文字。
泥舟さんとお付き合いのあった天童市民の方が頼んで書いて戴いき後日この様な物がありますと出てきて建勲神社の旗印に。天童市内に泥舟さんに書を書いて戴いた方が多数居られるようで御菓子の早川さんの文字も泥舟さんだそうです。( ・∇・;)
知りませんでした。
建勲神社での御法要では
有楽斎の流れを継ぐ茶道の美しい所作の
御点前を拝見する事が出来ました。
信長公に献杯ならぬ献茶。
二胡演奏と相まって
身が引き締まる感じです。
織田めしを戴きながらの
広重美術館さんのお話も興味深く。
吉田大八が自害した観月庵がある
妙法寺さんで。
ご住職にお尋ねすると詳しく色々と
教えて下さいました。
吉田大八が切腹した後
冥福を祈った官軍の将は
桂小五郎さんではなく
桂太郎さんでした。
ご住職が桂太郎自伝の書を出して
見せて下さいました。
長年の謎が解明されました(*T-T*)
妙法寺さん。
矢吹えいしゅうさんの
ご実家なんですね。
ご親切なご住職はえいしゅうさんの
お父様((((////)))知りませんでした。
(矢吹えいしゅうさんは若手のやる気ある
山形県会議院さんです。割り箸を使わずマイ箸を何時も持参の若者であります。)
お父様から全国から今年の大河ドラマが吉田松陰なので見学に来られるよと話して下さいました。
又改めてゆっくり見学にお邪魔したいです。
歴史に詳しい緒先輩方のお話も
お聞きでき織田めし
食する暇無し。
いえ、しっかり戴きましたが。(汗)
観光物産課のおねえさんからも
天童にも織田家臣の御子孫の方々が
今も結構いらっしゃるとお聞きでき
心臓ばくばくな時間でありました。
『信長公祭』
織田の里天童の要のお祭りに。
基盤を作ろう。守ろう。
という有志の方々の思いが籠った
厳かなお祭りでありました。