2013.5.2 WED
高国寺さんから戴いて来た
米沢日報の記事。
お電話で米沢日報の
と書いてあれば良いですと
お許しを戴いたので記録します。
1996年(平成8年) 1月1日(月曜日) 18面
新撰組隊長
近藤勇の首は米沢にあった
虎 井 義 明
近藤勇と私
私の義父、近藤六郎の祖父
近藤金太郎は武蔵の国の出身で
近藤勇の従兄弟であること、
勇が板橋の刑場で処刑された日の夜、
金太郎が勇の首を盗み出して米沢に持ち帰り、
菩提寺高国寺にある近藤家の墓に埋葬したこと、
金太郎の直系の孫、近藤利三郎が、そのことを
金太郎や父勇太郎から聞かされていたこと、
利三郎の姉、ふみが、子供の頃、
この墓には偉い人が入っていると教えられたということ等々、
私はかなり前から義父に教えられておりました。
義父は近藤勇の為に法要でもしてやりたいと思っていたようです。
そういう時の為に近藤勇の位牌をつくって、
近藤家の位牌と並べて祀っておりました。
私自身は近藤勇とは特別の関係もありませんし、
新撰組にも近藤勇にも格別の関心も持っておりませんでしたので、
義父の相談相手になることもありませんでした。
たまたま、米沢市内のPTA会報委員の方から
近藤勇のお墓について何か知っていないかという問い合わせがあり、
義父から聞いた話や、預かった資料等をお見せしたことがありました。
その時会報委員の方がお持ちになっていた資料の中に、
近藤勇の首が米沢市の
高国寺の近藤家の墓に埋葬されているという噂があるが、
全く根も葉もないことだ、
という説明があるのを見ました。
私は近藤勇の位牌までつくって頑張っている義父のことを思いやって可哀そうになりました。そこで私はいっそのこと自分の手で新撰組のことを調べてみようと思い立ったのです。
新撰組とは何か
人間 .近藤勇
新撰組誕生の周辺
官軍と賊軍の間
※ 上記の見出し記事は近藤勇と新撰組を
御調べになった虎井さんの文章が続きます。
長い為、断腸の念で割愛させていただきます。
この間の記事をお読みになりたい方はやま喜もしくは
高国寺さんまで。
近藤勇の墓
子母沢寛氏の 「新撰組始末記」によると、
近藤勇の墓は三ヶ所あることになっています。
一つは東京三鷹市の龍源寺、ここには
首のない胴体が埋められております。
もう一つは東京板橋駅裏にあります。
ここは勇みが首を斬られたところで最初、
勇の屍が埋められておりましたが、その後勇の親族が
屍を掘り起こして龍源寺に持って行きましたから今は空っぽです。
三つ目のお墓は会津若松市の愛宕山の中腹、
天寧寺の近くにあります。
ここには屍体も首も何もありません。
土方歳三が会津軍に加わって官軍と戦ったことの縁で誰かが建てたもののようです。
墓碑には 「 貫天院殿純義誠忠大居士 」の
戒名が刻んであります。
そのほかに、東京の南多摩に
近藤勇、土方歳三 「 両雄殉節之碑 」があります。
童門冬二氏の 「 新撰組 」によりますと、
そのはかに愛知県岡崎市の法蔵寺にもお墓があって、そこには
近藤勇が東京板橋で首を斬られ、その首が京都に送られ、
三条河原にさらされていたのを、
近藤を惜しむ人間が京都から運んで埋めたことになっております。
そのほかに東京荒川区南千住の円通寺にもお墓があるそうです。
円通寺は上野彰義隊の墓のあるところです。
ところが前述の岡崎市の怯蔵寺のお墓には
近藤勇の首は埋められていないという説を唱える人が出て来ました。
理由はこうです。
昭和三十一年ごろ、境内の片隅から墓の台石が掘り起こされました。
その台石には、土方歳三ら十三人の名前が刻まれてありました。
しかし台石には建立の年が 「 慶応三年辰年 」と刻んであります。
慶応三年は近藤勇はまだ死んでおりません。
従って近藤勇の首が葬ってあるというのもおかしな話です。
しかし怯蔵寺ではあくまでも近藤勇の首塚であるとして、命日の
四月二十五日には法要をおこなっているそうです。
寺の由来によると、近藤勇の同士が首を奪い、徳川家と縁の深い
怯蔵寺にひそかに葬ったということになっております。
寺の過去帳には
慶応四年四月 新選組長
貫天院殿純義誠忠大居士
近藤 勇
という記載があります。
不思議なのは、会津若松のお墓に刻んである戒名と、
岡崎のお寺の戒名が同じ点です。
首を米沢へ
一方流山在住の山形紘氏によるとこうです。
「 近藤勇の従兄弟、近藤金太郎の孫の利三郎によると、
斬首の夜、金太郎が板橋の獄門台から勇の首を盗み
隅田川のほとりで火葬の付したという。
そうなると京都に運ばれたのは偽首になるわけだ。
その後、首の骨は山形県米沢市に運ばれ、
金太郎の菩提寺(鍛冶町、高国寺)に埋められたという。」
となっております。
東京板橋の郷土史家、浅沼政道さんも
「 近藤勇の首は処刑の日の夜、獄門台にさらされているのを
従兄弟の金太郎が持ち去り、十日間かかって米沢まで運び
同市内の高国寺の近藤家の墓に埋めたと言う。
これは、金太郎の孫の近藤利三郎さんが金太郎や
父の勇太郎さんから口伝えに聞いた話を覚書のようにした
文書のコピーからわかった。」と言うことです。
子母沢寛氏の新撰組物語には親族の者が近藤勇の首のない胴体を
掘り起こす作業の様子が養子の勇五郎さんの思い出話の形で記されております。
「 私達七人が用意して行った鍬で土を二尺か三尺ばかり掘り下げると
新しい筳が一枚出た。これをはねのけると、
その下に死骸があったのです。
首はもとよりありません。
提灯を照らしてみると胴体だけがうつ伏せになっている。
それが白い肌着シャツ一枚と、下帯だけなのでびっくりしました。(中略)
ただここに埋めてある死体はどれを掘っても、みんな首が無いのだから
他人の死体と間違わないように、よく改めなくてはいけない。
と頻りに提灯を近づけて、この首の無い勇を改めて見ました。
何よりの証拠は、左の肩の鉄砲傷の痕です。
京の伏見墨染で伊東甲子太郎の残党に狙撃された傷で
すっかり癒ったといっても
左肩がちょっと上がり気味になっていた位の深傷だったのですが
これを探すと、
只今の一銭銅貨位の大きさで、
それが親指が入る程、深くなっていました。
父は 「 これだこれだ、間違いない間違いない 」と言って、
それから七人がかりで棺箱へ入れようとするが、
何しろ埋められてから三日も経っているので、
腕でも脚でも、こっちでつかむと、
ずるずるっとむけて来るので困りました。
父はこれを抱くようにして、
「 残念だろう残念だろう 」と泣きます。
私はもとより縁もゆかりもない駕篭かきまでが
声を上げて泣きました。( 後略 )
以上の説明でもわかりますように、
そこには首の無い死体が何体もあったようです。
従って獄門台には斬られた首がいくつもころがっていたのではないでしょうか。
その中から見覚えのある勇の首を盗み出すことは、親族筋の金太郎にとっては困難なことではなかったと考えられます。
京都の首は偽首か
世間では近藤勇の首は京都に持って行かれたことになっておりますが、近藤勇をよく知らない人が運んだとすれば、他人の首を近藤勇の首と信じて運んだとも考えられます。前述のように、実際に首を運んで来た祖父金太郎や父勇太郎から直接聞いた話として、孫の利三郎さんが語っているところからすると、かなり正確な情報として受け取っていいのではないかと思います。近藤金太郎は生家が近藤勇の生家の近く武蔵国入間郡金子村西三ツ木にあり、桐生で織物の修行をした後、万延元年一月十二日に米沢に来ております。
米沢図書館所蔵の近藤利三郎著 「 近藤家実録 」によると、金子村の近藤家と近藤勇の養子先が親戚関係にあり、金太郎は長男の名前を近藤勇にあやかって勇太郎とつけたと記されております。金太郎の四男は勝太郎ですが、これは近藤勇の幼名 「 勝太 」をとってつけたようです。このように金太郎は近藤勇を親族の誇りとしていたふしがうかがえます。金太郎が近藤勇の首を盗み出してまで、米沢に持って来ようとした気持ちがそこには感じられるのです。米沢市の高国寺の住職の話では 「 近藤家から何の連絡もうけていなかったのでよくわからない。」とのことですが、当時としては近藤勇は反逆者のレッテルをはられているわけですし、まして盗んで来た首の話を他人に漏らそうものなら、金太郎の立場はどうなったかわかりません。ですから、金太郎はお寺の住職にも話さなかったものと思われます。
利三郎さんの姉の 「 ふみ子 」さんは子供の頃に
「 このお墓には偉い人が入っている 」と父から聞かされていたと後年述べております。
( 筆者はよねざわ市民相談所長 )
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記事の内容が長く
新撰組とは近藤勇とは何か
という部分を記載断念致しましたが
以上が高国寺から戴いて来た
米沢日報の記事の内容です。
真実かどうか...
それは研究者の方に委ねるしかありませんが
語り残さねばならない
出来事が埋もれてしまわないように
時を経て
明らかになる事を
切に願います。
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