2012年9月2日日曜日

大阪旅 記 「適塾」

2012.8.26 SUN


大阪へ降り立ち
一路梅田へ。

御堂筋線に乗って一駅
淀屋橋に。

川を挟んで向こう岸の
中ノ島にはあの
大阪市役所が。
そんなビジネス街の中に
幕末の医師
緒方洪庵の住居

「 適 塾 」があります。





 炎天下
その日の大阪は35度。
そんな中,間違って風情ある
幼稚園につられて道に迷った私達を
地元の近所の小学校を卒業しましたよという方が
優しく適塾まで連れて行って下さいました。

優しさが身に沁みる
旅の出会いであります。
大阪人、優しい!!!!!

感謝してお別れし
早速中へ。


中は撮影禁止でしたので
写真はここまで。

木の香りのする
お庭の美しいお家です。
クーラーは無いのに
窓を開け放していると
風が通って気持ちがいい。

家の真ん中に坪庭があって
どこの窓からも覗けます。


此処に
福沢諭吉や
大村益次郎
大鳥圭介
橋本左内
手塚先生のご先祖
手塚良庵さんも居られたのですね。

全国から勉強に来た
塾生の分布図には
山形からは
13人 ! 
とありました。


二階へ上る階段の
一段一段の段差がとっても
急で手荷物があると昇れません。
女中さん達は
御用事を言い付かって
何かを運ぶ時は
大変だったのでは。

昔の人は此れを
日々昇っていたのかと
あまりの急さにびっくりしました。

昇りきりますと
女中さん達のお部屋。
そのお部屋の扉を開けると

ゾーフ部屋と呼ばれる
小さなお部屋が。

塾生がこぞって使った
ゾーフハルマという
蘭和辞典が置いてある部屋です。

緒方洪庵事件帖や
陽のあたる樹のドラマで
出てきた通りの部屋だなあと思いました。
(あ...汗 事件帖は若い時のお話だから違うか)

此処で一生懸命
汗をかきかき
ムンムンした空気の中
勉強したんですね。


ゾーフ部屋を出ると
塾生が寝泊りしていた
大部屋に。
此処に分布図が。

二階の奥の部屋には
手塚治虫先生の絵が入った
一筆札があり
手塚 良庵について
説明がありました。

西南戦争に従軍し
九州で赤痢にかかって
亡くなっておられました・


一階へ戻り
もう一度洪庵先生の書斎や
薬を調合した文机などを観ていたら
感想文ノートがある事に気づく。


ぱらぱらとめくっていると
姉が緒方洪庵さんの
6代目さんの書き込みを
見つけました !


何代目かの○○先生の下で
医学の道を目指しておりますと
書いてありました。


○○先生を
メモしてくればよかった
と思いましたが
後の祭り。

きっと知る人ぞ知る
有名な先生なのでしょう。

適塾へこれから
行かれる方
是非チェックしてみて下さい。

わかりましたら
教えて下さいますと
とっても嬉しいです。

洪庵先生の御子孫さんが
道を同じく
医学の道を。


感慨深く
塾生と洪庵先生の
熱い熱意の篭る
適塾を後にしました。


この旅で
適塾が大阪大学の
元であった事
初めて知りました。



..........................................



夜は
謙信公(GACKTさん)の
舞台大阪公演最終日
梅田芸術劇場へ

「義経秘伝 源 義仲編」






泣き虫で甘えん坊な義経。
月が出ている間しか姿が見えない
陰 と 陽和ひより

巴御前と源 義仲
義経四天王の
弁慶と仲間達

眠り狂四郎とは
全く違う役どころに吃驚し
巴御前の胸をはる堂々とした歩きや
途中ベルバラの歌を歌う処では
オスカル様にしか見えません。
多くの宝塚ファンの方が
応援に来られているようで
声援が一際でした。
凛々しかったです。

陰とひよりのこの世のものではない
雰囲気にうっとりし
仲間達の熱き友情に胸焦がし

お話の終わりには
会場中すすり泣く音が
そこかしこに。

例に漏れなく私達も。

この
義仲編の続きを!
と切望するファンが
沢山居られたのは確かです。


劇中でGACKTさんが

「茶琥屋のたこ焼き食って
 帰ろうー。」


と言っていた
茶琥屋を
芸術劇場から梅田駅への
道のりで発見 !


ここかあ!と
すかさず
買って店先の縁台で
ご馳走になりました。

熱々で
火傷しそうなくらいだけれど
柔らかくてとっても
美味しかったです。
ふわふわです。^ ^


GACKTさんのこの公演がなければ
大阪へも京都へも
思い切って来る機会が
無かったと思います。

こんな機会を下さった
我等が親方様に
感謝しつつ
公演の涙の余熱に
うかされ
大阪の一日を
閉じました。


感謝 。



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