2016年1月20日水曜日

【 織田藩の女たち展 2】



田鶴町一帯に御陣屋を中心に
御家来の武士の皆さんが御家族と
御住まいになっておられました。

織田藩の女たち展
ずっとずっとどうなんだろう……
という疑問が八重の方のコーナーで晴れました。
戊辰戦争の時
お殿様達はどうしたのか。

書かれてありました。

1868年明治初めの田鶴町の地図。
カラフルな原本はガラスケースの中ですが
複製に女性達のお家が
ピンクのマーカーでわかりやすく
書かれてあります。
4月26日
庄内藩勢が天童に押し寄せる
風聞があり老幼婦女子の避難を命じ
厳戒体制に入った。

この時信学は
奥方、側室八重の方、お滝の方をはじめ
寿重丸、乳母、女中等と共に
家老野田ギ太夫
医師志田六硯等
十数人の従者に守られ
八重の生家である村形宇左衛門宅に
避難した。
だが、庄内勢の閧の声は
三本松付近まで聞こえ
荒谷は天童に近すぎるので危険であると
宇左衛門に案内され
山寺の遠藤金兵衛方に赴いている。
しかし庄内藩の攻撃もなかったので
28日に天童に帰っているが
産後の肥立ちが悪かった
八重の方は前日27日26歳で亡くなり
即円寺にて仮葬している。
現在の八重の方は
三宝寺御霊屋の
北側にお眠りになっておられます。

志賀直哉のお母さんになった
高橋浩さんの事も。
『母の死と新しい母』
という作品でお母さんの事を
書いてあるそうです。
直哉が心の優しい浩に
実母のように懐き
心から慕っていた事
浩も我が子のように愛していて
くれる事が述べられている。
昭和45年秋
父との不和で28歳の直哉は
家を出たが後に和解している。
これは継母の力があったからと
思えてならない。
浩は一男五女を
生み育てる。
と書いてありました。
天童の文学の森に
志賀直哉の碑があるそうです。
場所を知らない天童市民で
申し訳無い××;
色んな事を
次々知ってゆくと
違う町に見えて来ました。
天童 !
………………………………………………………

織田藩の女たち展の一角に
お隣の秋田の佐竹様から
町が焼けて大変だったね
お見舞い金送りますね
という内容のお手紙も展示されてありました。
有り難や有り難や(T-T*)

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